自分にとって受験勉強とは何だったのだろうか?

 25年前の昭和56年,自分は札幌医大に合格し,医師としての第一歩を踏み出した.そのために自分は今考えても厳しい受験勉強を行った.それを振り返って,自分にとって受験勉強とは何であったのだろうか,あらためて探ってみたい.また,この記事が,医学部を志す受験生の励みとなれば自分にとって,喜びである.

 受験勉強は自分にとって自己実現の唯一の道であった.


 漠然と,しかしはっきりと覚えているが自分は小学校3年生の時に医師になることを欲した.子どもながら,医師になるには医学部に行かねばならないが,それはすごく勉強ができなければならないようだ,ということは何気なく耳に入る大人の話をちょこちょこと見聞きし,知っていた.
 小学校,中学校では,なんとなく漠然とした夢ということで良かったのであるが,高校に入り,自分の高校の卒業生の進路の資料を見せられた時,頭を殴られたような気がした.夢はがらがらと音を立てて崩れ落ちていくような気がしたのである.
 なぜならば、卒業生350人あまりのうち、医学部に合格したのはだいたい5番くらいまでであった。中学で私は30-50番くらいにいたのに、そのような生徒が集まる高校に入り、突然5番くらいになろうはずがない。

 実際に、入学後すぐに行われた英数国の主要三教科の試験では70番くらいであり、これでも健闘した方だと自分では思っていたくらいだ。医学部に行くと言うことは自分にとってひどく難しいことだということが、ひしひしと分かったのである。

高校時代 
 高校は函館の中部高校に進学した.函館の受験校である.中学の時はバレーボールをやっていたが,高校では夏休み頃に友人に勧められハンドボール部に入った.高校の時は自分は自分なりにできるだけ勉強をした.高校の勉強内容は質、量ともに中学のそれとは比較にならない。数学などは授業の進む速度が速く,ついていくのに最初は大変であった.しかし,がんばってやっていると不思議なもので2年生頃になると慣れてきた. 医学部に行こうという夢も漠然と描いていた.しかし,だれでもそうであるが成績とはそんなに上がるものではない.70番くらいのものが,いきなり5番くらいにはならないのである.


 また,高校生くらいになると変に分別がついてくるものなのであろうか.自分よりも上位にいるものが,北大の理類(当時は理I,II, IIIと分かれていた)を志望していた.そのようなことを見ていると,いつしか医学部を志望するのがえらく分不相応なことに思えてくるのである.


 高校2年の時,自分の希望する進路を記載することがあり,さすがに思いあぐねたが,第一希望を北大理類,第2希望を医学部とした.すると担任の先生が,第一希望を医学部とし,第2希望を北大理類とするようにと言ってくれたのである.自分は何か認められたような気がしてうれしかったものである.その担任の先生も,受験は北大理類と弘前大学を受けたが,北大の試験の時,化学の試験問題の解答用紙を間違って持って帰ってしまい,後で届けたが認められるはずもなく,第一希望の北大を落ち,弘前大学に行ったという人であった.北大に行きたかったのであるが家庭の事情で浪人も許されず,弘前大学を卒業したのである.だから,高校生のこのような悩みに理解があり,鼓舞してくれるのであろう.
 しかし,勉強すれども成績はなかなか伸びない.皆も勉強をしているからである.高3で理系,文系と別れ,迷わず理系を選んだが,30番付近でとても上位5番に食い込むことはほど遠かったのである.


 私の受験したのは昭和54年であり,この年から共通一次試験が始まり,国公立大学は1年に1校しか受けられなくなった(その前までは1期校.2期校にわかれ2校受験できたのである).
 共通一次の結果が良ければ,医学部を受験しよう.そうでなければ,北大を受けよう,と考えていた.しかし,このような考えは自分に甘さを生じさせるものなのであろうか.共通一次の勉強にあまり身が入らないのである.共通一次の結果は1000点満点中760点で,医学部を受けるどころか北大理I系も危うい結果となってしまったのである.ここに自分の決意も固まり,北大理I系1本に的をしぼり,2次試験での逆転を期し,全力で勉強した.


 その結果は合格.うれしかった.自分の受験勉強が報われ,親元を離れて札幌に出て,北大に通うということがうれしくないことがあろうか.広大な北大のキャンパス,都会的な札幌の街,オーロラタウン, ポールタウン,函館で育った自分にとってすべてが魅力的だ.自分の青春時代がこれから始まるんだ,と期待が膨らんだ.今までのひからびたような無味乾燥な受験のための勉強は終わり,学問をして,スポーツもして,素敵な女性との出会いもあるかもしれない,と否が応でも期待に胸は膨らんだ.

北大時代
 札幌の街は確かに函館出身の私には物珍しかった.札幌駅周辺の地下街やデパート,大通りのオーロラタウンやポールタウンという地下街も人が多く行き交い,店がひしめき,歩いているだけでも楽しかった.大通公園もただ散歩するだけでも楽しいところだ.大都会の真ん中にこれほどの大きな公園がある札幌はすごい,札幌にいる自分もすごい,とまじめに思ったりもしていた.

 なによりも,北海道大学のブランドを背負えたという喜びも大きい.自分の父親は商船高校を出て船乗りになり,国鉄青函連絡船に乗っていた.その父が口癖のように「大学を出なければダメだ」と言っていた.それが,大学は大学でもただの大学ではない.旧七帝大の北大なのであるから,親もすごく喜んでくれたし,自分もうれしかった.
 しかし,医師になりたい,医学部に行きたい,という願望は胸の奥でチロチロとくすぶっていた.しかし,北大を辞めて,また更に受験勉強をして医学部を受験するなど,天国から好んで地獄に行くようなものだとしか自分には思えなかったのである.


 北大のキャンパスは広くて格好良いのであるが,1週間もあれば大方見てしまうものである.

 北大の入学生はまず最初の1年半か2年は教養部に属し,教養課程を履修するのである.私は1年16組に属した.1クラスは50人ほど.北大の入学生全部が40クラスほどに編成された.
 大方の高校生は大学の授業というものに何らかの憧れを抱くものである.私もその様な憧れを抱いていた.ここでやるのが真の学問なんだと.高校までの無味乾燥な勉強でさえ自分はこれだけ熱心に取り組めたのだから,大学の勉強は面白くてしょうがないはずだ,と思っていた.


 英語,数学,ドイツ語,物理(理I系は物理系なので物理は必修)は必修科目で50人クラスで授業を受け,物理化学や化学も理I系では準必修でこれは2クラス合同で100人くらいで授業を受けた.そのほかの一般教養の選択科目である人類学や社会学,社会思想史,東西文明交流史等は200人から400人という,大きな講堂で講義を受けた.授業は単位制で,自分の行きたい学部の要請(たとえば建築学部や土木工学部は図学を取るように等)や興味で単位を選択してゆくのである.

 あと,学部の選択であるが,各教科の優・良・可・不可と言う成績に優は2点,良は1.5点,可は1点,不可は0点と点をふり,平均点を出して,希望をとり成績順に決まっていくのである.たとえば,当時は,電気工学科,電子工学科は人気があり1.8くらいないと行けないとされていた.これはほとんどが優でなくてはいけない.また,地球物理学科のような耳ざわりの良いところも1.8 くらい.物理学科,数学科など理学部の学問の王道的な科も人気があり1.6くらい.建築工学科など格好の良いところも人気があり1.7くらいであった.合成化学,応用化学,金属工学などはなぜか学生に人気がなく,最低の成績でも行くことができると言われた.これらの学科が他の学科に就職の面や学問の面で劣っているということはまったくないのであるが,この評定にはかなり学生側にミーハー的なものがあった.

 当初の期待とはうらはらに大学の授業は,自分にとってつまらないもので全然興味の湧かないものであった.高校までの授業より無味乾燥なものに思えたし,教官もどこかそらぞらしい他人行儀な感じさえした.つまり,大講堂の講義に先生と心が通うという感覚は望べくもないだろうが,50人くらいの高校の授業のようなものにさえその様な感覚は得られなかった.

 どこの大学でもそうであるが,新入生歓迎コンパやら,クラブの勧誘やらで酒を飲む機会も多くある.初めて飲み屋で酒を飲み,つぶれたり,二日酔いになったりしたのもこの頃である.
 北大のような大きな大学ではありがちな自分の居場所を見つけられないもどかしさ,受験一辺倒の生活から放り出され自分の価値観の消失,このような心の隙間を埋めるために,誘われるがままに酒を飲んだり,そこで人とわけもなく話したりした.また,クラブ活動やサークルというのがあり,同じ高校の出身者が民族舞踊研究会(民舞研)に多く入ったので,女の子もたくさんいるというので自分も入部した.また,札幌文芸村という読書サークルがありそこにも入り,大江健三郎や三島由紀夫を読んで議論したりした.と言っても,1-2回顔を出し,本も読まずに酒を飲んで話をしただけである.

 高校時代にハンドボールをやっていたので,北大の全学のハンドボール部にも入った.ひどいときで3つのクラブをやっていたが,全学の体育会系のクラブは甘いものではない.民舞研は女の子がたくさんいるといっても性格に合わず1ヶ月ほどですぐに辞めてしまった.札幌文芸村もすぐに辞めてしまった.
 学部移行の時に困るとは言ってもとにかく当座は勉強はしなくて良いし,授業も休み放題だしで,時間は腐るのではないだろうかと思えるほどたくさんあった.まさに「高等遊民」である.

 構内に林立するポプラの木々は春のそよ風にたおやかにそよぎ,その下を学生がゆっくりとした足取りで歩いている.クラーク会館の近くの中央ローンと言う広い芝生では,民謡踊りの練習をしている人たちや,下手くそなキャッチボールに興じている学生がいつもいる.キャンパスを出てすぐのところにある札幌駅周辺や大通りの官庁街,商社街では人々が懸命に働いているのに,この札幌の中心に大きく広がる空間では時間が実にゆっくりと流れているのである.まさに別天地,この世の楽園.ここでしばしの間,学生達は「絢爛の宴(けんらんのうたげ)」を張るのである.

 実際に仲間とも「こりゃあ,俺達高等遊民って奴になっちまったぞ」とか「こいつらももっと一生懸命やれば北大構内からロケットが上がるのによぉ」と半分自嘲ぎみに言ったり,おれ達がこんなことをしていては日本はダメになる,と大所高所から意味なく議論をしたりしていた.

 ゴールデンウィークまで一部の必修科目を除いて本格的な授業はなく,どの講義を選択するか見学してくれ,という感じであったし,ゴールデンウィークを過ぎたらすぐに夏休みだぞ,ということで,全く拍子抜けしてしまうのである.


 しかし,そうなったらそうなったで何かしないと本当に不安になるものである.ハンドボール部に入り,とにかく,練習練習で,練習はきつかったがそれなりに自分の居場所が見つかったような気がしたものである.
 心の隙間から,医師になりたい,医学部に行きたい,という気持ちが時としてスーッと鎌首を持ち上げることはあっても,相談する人もいないし,2-3ヶ月もしてくると,北大生としての生活も板に付いてくるのである.
 10月頃,ハンドボールの全国大会が九州で行われ,北大は北海道の代表チームとしてこれに参加した.自分も福岡に行ったのである.帰りは汽車で帰って来たのであるが,神戸で途中下車をした.その時,徳田虎男氏の「命だけは平等だ」と言う本を手にした.そこには,彼が2浪して阪大の医学部に入った苦労話が切々とつづられており,非常に感銘を受けた.「おれもやっぱり医者になりたい.医学部に行きたい」と切に思ったが,「今の生活を捨てたくはない.受験しても受かる保証はどこにもない」と神戸の空を見て嘆息した.


 この頃は,自分の気持ちとしては,まあ,折角北大に入ったのだから卒業だけはしようや,という風に考えていた.ハンドボールの練習をして,時として酒を喰らい,友人と放談をしていた.勉強はさっぱり身が入らなかった.建築家も良いんじゃないか,とも思っていたが,成績は悪く,建築学科は人気が高く,このままでは入るのはけっこう難しいことが予想されていた.が,あまり深く考えていなかった.


 11月ころであったろうか,石川県出身で2浪して北大理IIに入り,近所のアパートに下宿している宮西と彼のアパートで話をしていると,突然「おれ医学部に行こうと思うんや.また,受験しようと思うんや」と言い出した.そのとき,自分の気持ちをそのままそっくり彼が言っているような気がしてうれしかった.そして,自分も「いや.おれもずっとそう思っているんだ」と気持ちを吐露した.この時,初めて,医学部へ行きたいと口に出して言ったのである.この時大いに語ったが,まだ,絵空事の話をしているようにしか思えなかった(宮西は後に金沢大学医学部に入ったが,この時は私が本気で言っているとは思わなかったと語っていた).
 この頃,旺文社のラジオ講座のテキストを買って少しやってみたが,とても落ち着いてできるような気分ではなかった.北大生としての生活にどっぷりと浸かっており,受験モードに気持ちがなるはずもなかった.


 ハンドボールをして,話をしながら酒を飲み,授業はあまり出ずにぶらぶら北大生協で飯を食う.そういう生活もいよいよ矛盾が生じてきた.1年の上半期の成績が出たが当たり前だが芳しいものではなかった.殆どが可であり,不可も多くある.良い成績を取り希望する学部に進学するどころか進級することさえ危ぶまれるような感じである.矛盾が深まるにつれ,医学部進学の夢は大きくなっては来ていた.


 年が変わって,昭和55年の1月,この時に一大事件が起きたのである.ハンドボールの練習でサイドシュートを打って着地したとき,左膝がゴッキとなり激痛が走った.骨が折れたかと思ったほどである.しかし,何とか苦痛をこらえながら歩けたので骨は折れてはいないだろう,と思った.北大病院に行ってみたが,なにやら敷居が高そうだったので近くの整骨院に行ってみた.マッサージを受けるとすごく楽になり歩けたのである.しかし,しばらく歩くとまた痛みが出てきた.
 このようなことをしていたが,3週間もすると痛みはほとんどなく走ることさえできるようになった.1ヶ月半ほど練習を休み,その後3月の初めころから練習を再開したが,程なくして,再び同じようなけがをした.5-6年後にきっちりと診断がついたのであるが,「左膝の前十字靱帯損傷」である.私はこの時「もうハンドボールはできない」と直感したし,その後ハンドボールの練習には顔を出すことはなかった.学年が変わり,4月の新入生歓迎コンパにはクラブのみんなに顔を出すように言われたので,一応顔を出して,この時は変に陽気に酒を飲んだ.この日,一升飲んでつぶれてしまった.酒を飲んでつぶれたのは後にも先にものもこの1回だけである.事実上,これがハンド部での最後のお務めとなった.


 1年から2年へは何とか進級することはできた.しかし,成績は惨憺たるものであった.カリキュラム上,2年目の上半期終わり,10月ころに教養部からそれぞれの学部に移行するわけであるが,この時単位が足りないと移行できないのである.事実上の留年となるわけである.また,こんな成績であるとなかなか希望する学部には進みづらくなるのである.まあ,これも自業自得である.授業もろくに出ず,試験の前も勉強しなかったらこうなるのは当たり前.

 2年目の4月に物理実験という必修科目があり,これに参加した.これは,4人ほどのグループに分かれ,物理の実験をするのである.教養部では珍しく学生と教官の距離が近い血の通った授業である.このころになると,学部移行が近いので,学生もその話しを多くし,いよいよ学部,ということで生き生きとして来ているのをひしひしと感じた.しかし,自分の気持ちは沈みがちで,とても話題には入っていかれなかった.この様なところでも,言い知れぬ疎外感を味わったのである.もはや皆とは違ったところを向いている自分に気がついた.この授業も2-3回出たきりで行かなかった.

 ハンドボールもできなくなったし,ここに北大生をこれ以上続けることが精神的に非常に難しいような気がしてきた.
 教養課程で落としてはいけないとされていたドイツ語を落としたので,いわゆる再履修のクラスに行かなければならなくなったが,行っては見たものの,当たり前であるが,だらっとしている人間ばかりで本当にいやになった.

 ここはいわば北大の吹き溜まりのようなものだと思った.先の物理実験に出席しこのドイツ語の再履修の単位を取らなければ,学部移行ができないのは分かっていたが,もう正直どうでも良くなってしまった.本当にどうでも良くなってしまったのである.もはや自分にとって北大は天国でも別天地でもこの世の楽園でもなくなっていたのである.このころから医学部再受験を現実問題として真剣に検討し始めた.


 北大2年目の5月ころから宮西と模擬試験を受けに行った.1年ブランクがあるともう忘れているので,結果は偏差値45くらいで散々であった.それでもこのように1ヶ月に一回でも模擬試験を受けたり,予備校とはどんなところか,予備校の授業にモグリでさぐりに行ったりしていると,気持ちは盛り上がる.もはや,北大はどうでもよく,医学部再受験の気持ちははっきりしてきた.これが自分が今まで望んでいたことなんだと,はっきりと分かった.自分は今まで自分の気持ちにうそをついてきたのだ.


 宮西は8月ころ京都の予備校に通うために北大に退学届けを出し札幌を引き払った.
 私は,北30条のアパートに住んでいたが,7月の終わり頃受験勉強に専念するために円山近くの飯付きの下宿に引っ越した.部屋は4畳半で玄関、水飲み場、トイレは共同。引っ越しの時,親にも手伝ってもらったが,「何で(北大を)辞めるんだ.おれが代わりに行きたいくらいだ」と憮然として言っていたが,自分の気持ちは全く動じることがなかった.


 そして,桑園予備校の夏期講習会を受けた.久しぶりに受ける受験の講習は新鮮だった.受験勉強も新鮮だった.これが自分が今まで望んでいたことなのだと本当に自覚した.しかし,さすがに夕方や夜は寂しかった.あーあ,今ころよくつぼ八に酒を飲みに行ったなあ,とか思うと寂しかった.しかし,そんなセンチな感傷を吹き飛ばすほど自分は燃えに燃えていた.「男子3日遭わざれば刮目して見よ」という.引っ越しをして,夏期講習に通って1週間して,北大の友達にあったが,自分は大きく変わっているのを感じた.たった1週間であったが自分には半年くらい経ったような気さえした.それほど自分は変わった.チンタラモードから医学部再受験の戦闘モードに気持ちが完全に切り替わったのである.

勉強方法の策定
 高校時代の勉強法をじっくりと反省してみた.
 数学はうまくいったと思う.数学は授業にあわせて教科書と学校で配布されたオリジナル問題集(数研出版)のみをやった.じっくり考えながらやった.高3の夏頃に「受験の数学」という月刊誌があり,これを,やったところ,上滑りな勉強になったためか,数学ができなくなりスランプに陥ってしまった.秋から再び教科書とオリジナル問題集をコツコツと解くスタイルに戻したところ少しずつ数学の成績が戻ってきた.
 英語は,塾に行っていた.塾では相当高度なことをやった.新々英文解釈研究や英作文700選(駿台),英文法頻出問題演習(駿台),難問集など.英語の授業と塾の勉強だけに絞り集中すれば良かったのかもしれない.このほかに,トレーニングペーパーやら,英熟語の問題集やら,旺文社の添削やらに手を出したが,いずれも時間ばかり食い手応えがなく,途中でやめてしまった.先の「受験の数学」と同様変なものに手を出すと,時間を損失し成績の低下につながるのではないか,と思った.勉強していながら成績が下がっていくので,泣くに泣けないところだ.
 理科は物理と化学を選択したのであるが,成績はいつもさんざんで不得意科目であった.どうも表面だけの上滑りな勉強をしたように思う.最後の定期試験で教科書をじっくりと読み,配布されていたオリジナル問題集(数研出版)をじっくりやったところ,「分かった」という気がしたし,点数もまずまずであった.


 以上のようなことを,反省点として,とにかく上滑りな勉強は辞めよう,一つ一つコツコツと詰めていこう,と考えた.予備校の授業を中心としてテキストのみをやると良い,と考えた.予備校のテキストは充実しており,それだけやるだけでも大変だし,十分だ.
 よく難問,奇問を好む人がいて「大学への数学」とか「Z会の添削」をやたらする人がいるが,そんな時間があれば予備校のテキストの問題を何度も反復した方がよいのであるし,身に付くのである.手を広げると,やはり時間が足りなくなり上滑りな勉強が多くなる.そうなると,苦しい思いをして勉強しても成績が思うように伸びないし,勉強しても分かってきた,できるようになってきた,と言う実感もつかめず,そうこうしているうちに勉強すること自体がいやになってくるものである.

予備校
 受験するに当たり,ペースメーカーとなるものが必要と考えた.そこで予備校に行くことにした.と言っても,潜りで行くのである.テキストなどは,高校時代の友人で2浪していた沢井君(秋田大学金属工学科)から必要なものはコピーした.また,同じ下宿に私立の薬学志望の浪人生がおり,彼から要らなくなったテキストを買った.余談だが,彼と話をする時彼は決まってサイフォンでコーヒーを煎れてくれた.それまでコーヒーをブラックで飲んだことはなかったが,この時からブラックで飲むようになった.下宿では北大のことを言っていろいろ言われるといやなので一浪ということにしておいた.こんなところで精神的に摩耗したくないと考えたのである.


 予備校の授業には夏休みが終わって2学期から本格的に参加した.予備校の授業は新鮮な感動があった.一講50分.まず,浪人生の気持ちを鼓舞あるいはリラックスさせるために10-15分くらい雑談をするのである.
 学力的にはすべてが不足していた.模擬試験を受けても偏差値は45-50ほどで医学部には遠く及ばない.だいぶ忘れているのである.ある時,模擬試験があり自分の結果が,今自分が通っている医学部進学用の特設のクラスで何番くらいか知ることができたが,ほとんど最下位の方であった.特設のクラスと言ったって,皆そんなにできるわけではない.医学部に実際に行く者はこの中で10%位である.ちょっとこの結果には驚いたが,ドンマイと楽観的に考えることにした,というか,もうやるしかないだろう,という感じだった.
 あらためて,受験勉強して,知識を思い出すのは楽しかった.なにかしら,久しぶりに懐かしい友人に会うような気さえした.
 家での勉強では,いろいろ手を出さないで予備校の予習,復習のみとした.数学・英語・国語はほとんど予習していくものとした.不明なところ,暗記しなければならないところを復習した.実際,これのみで家での勉強時間はほとんどなくなった.理科・社会はあまりする時間がなかった.これはほとんど授業を聞くのみとした.実際それしか,時間がないのである.


 1日の生活は,規則正しく行うことを心がけた.浪人生は不規則になる者が多い.夜型になりすぎて,夜起きていて,予備校の授業には出ず,朝と昼寝て夜だけ起きている人も多い.
 私は,夜は1時か2時には寝るようにした.7時間の睡眠時間は確保するようにした.朝ご飯は必ず食した.
 朝は下宿で飯を食い,予備校の授業を聞いた.授業は2時か3時頃終了する.そのあと,図書館に行ったり,下宿に帰り,6,7時の晩飯まで勉強した.晩飯を食べた後,15分か30分くらい仮眠し,また,勉強した.ただひたすら勉強した.あまりに詰まった場合には軽く外を散歩しセブンイレブンで立ち読みした.これもだいたい20−30分だ.


 1週間に1回,日曜日は模擬試験を受けた.はじめ,医学部はE判定(志望校の変更を要する)であったが,徐々にD判定(更なる努力を要する)となってきた.E判定だと,まるで相手にされていないということであるが,D判定となると,一応相手にはされているんだと解釈した.合格判定についていろいろ言う人はいる.AやBが取れればそれはすばらしい.そして,その判定を気にして,安全策ばかりを心がける人もいる.私は,合格判定は,Cならボーダーラインだからすごくいいじゃないか.合格.Dは相手にされている,と解釈していた.とにかくこういうものは良い方に良い方に解釈しなければ駄目だ.
 初雪が降る頃になるとC判定(ボーダーライン)をもらえるようになった.
 模擬テストの成績など関係ないじゃないか,そんなことに一喜一憂していては駄目なんだ,つねに平常心だ,それよりも,試験で間違ったところをきちんと見直すことが大事だと思った.
 模擬テストの後は,成田君や同郷の沢井君と札幌駅地下に古い映画を300円ほどで見せるテアトルポーという映画館があり,そこで映画を見るのを唯一の楽しみとした.成田君は同じく北大中退,医学部再受験組である.彼とは,医学部進学の夢を燃えるような思いで語り合った(成田君は旭川医大に合格).


 この当時,自分は北大をまだ正式には辞めていなかった.正直なところ退学届けを出すのははばかれたのである.秋も深まる頃,北大の担任(教養部2年16組の担任.当時はこのような学級担任制度を取っていた)の統計学が専門の山元先生(ヤマゲンと呼ばれていた)の所に行き実際どのように身を処すればよいか相談に行った.
 相談したい点は
 ・北大に在籍したまま医学部の入学試験を受けられるか.
 ・二重学籍の問題はないか
ということであった.
 自分としては重苦しい気分で相談に行ったのであるが,ヤマゲンの答えは明瞭であった.
 ・北大の医学部を受けるといろいろ問題はあるかもしれないが他大学ならまったく問題はないとのこと.
 ・合格したら,北大を辞めたらよい,とのこと.合格した先の大学の学生になるのは4月1日からであるから,二重学籍になりようがない.
 北大を辞めたら,どうして辞めたのか,と変に思われて,医学部に入学できないとか,そのような変な噂があったので,少し気にしていたのであるが,ヤマゲンの話でそれが払拭された.ひとつ問題が片づいたのである.
 このころは,まだ,北大に少し未練はあったのであろう.しかし,もう2次試験が終わり発表待ちの頃には,北大への未練は消え,もし落ちたら,もう一年受験勉強しようと考えていた.気持ちが,完全に浪人生になったのだろう.
 
 さて,当時は1日15時間くらい勉強をした.全力でやるとこのくらい勉強できる.これ以上すると睡眠時間を削らなくてはならず,不可能であった.睡眠時間は自分は7時間ほど寝ないと駄目であった.ただし,これ以上の睡眠は必要がない.俗に「四当五楽」と言いう.4時間睡眠なら合格でき5時間以上寝ると不合格になるという意味であるが,睡眠時間を削ってはだめであるので,極端な四字成語であろう.
  このような姿勢で勉強を続けたが,共通一次試験は780点とふるわなかった(予備校の資料では札幌医大の場合は830点が合格ラインとされていた).


 2次試験での逆転をかけ,共通一次試験が終了してから約2ヶ月あまり,必死に勉強した.2次試験の科目は数学,物理,化学,小論文であった.
 この時,2次試験の物理と化学に関しては,高校の教科書を精読した.当時は数研出版の教科書が評判が良かったので,どちらもその教科書を精読した.化学は高校時代数研の教科書を使用していたが,物理は大原出版であったので,数研出版の教科書を買い,教科書ガイドとともに精読した.これにより物理,化学の基礎知識をがっちりと確立することができた.また,非常に良かったことに,入試本番で物理で教科書にあった問題がそのまま出ていた.
 札幌医大の過去の問題も徹底的にやってみた.最近の5−6年の間に3-4回,変域に変数を使う積分の問題が出ていた.また,その問題がどうしてもできないのである.このタイプの問題を3日くらいかけて徹底的に理解し演習した.すると,本番の数学で同じ問題が出た.数学は試験時間が1時間と短く,問題も2問しか出されていなかったので,この問題を解けたことは非常に大きかったことは明白であろう.


 入試会場で興味深いことがあった.自分の2つ後ろに座って試験を受けた者は,自分の北大の恵迪寮の知り合いであった.彼は冷やかしで受けてみた,と言っていた.また,自分の北大の友人も受けていた(彼は翌年札幌医大に合格した).北大理類に入っても医学部を目指す人間は意外に多いのである.
 実際に札幌医大の同級生100人の平均浪人年数は2.7浪.100人の内15人くらい大学を卒業してから再受験をした人がいた.彼らは,年上であり,大学を卒業しているので,敬意を表して「長老」と呼ばれた.あと,中退者も珍しくはなく自分を含めて10-15人ほどいた.北大を辞めたら変に思われるのではないかと懸念していたこともあったがそういうことは全くないのである.


 とにかく自分は合格し,積年の夢を果たしたわけである.今から25年前のことである.25年前に自分は自分なりに大きな決断をした.そしてこの時,命のやりとりをしたと思っている.そして,それを乗り越えて,合格し,それを境にして自分の新しい人生が始まったのだと思う.


 終章として,自分にとって受験勉強とは何であったのか,を記す.

終章 受験勉強とは自分にとって何であったのか?

 受験勉強とは自己実現の場である.医師になることを欲していた自分にとって,受験勉強は医学部に入るという文字通り自己の実現のための場であった.
 医師になり,18年余りとなる.医学部に入学後も医学部の進級試験,医師国家試験など,沢山の試験・関門があったが,医学部受験こそが自分にとって最大の関門であった.
 受験勉強とは,大学受験のための勉強だ.ただ,私の場合のように自分の学力よりも偏差値が15か20ほど高い大学を目指すとなると,これは全身全霊をかけたすさまじい修行となる.


 毎日毎日,集中力をもって長時間勉強するには,自分の気持ちを常に前向きに,ポジティブに保つ必要がある.また,精神は常に平静に保たなければならない.喜怒哀楽をあまり顔に出さず,心を常に平静に保つことが必要である.自分と同年代の人間が異性と楽しそうにつきあっているのを眼にすることもあろう.その時,誰でも悔しい気持ちがわき起こるものだ.それさえも,自分の勉強のエネルギーとして昇華させなければならない.自分の感情をそこまでコントロールしなければならないし,それは可能なのである.  

 1日一体どのくらい勉強することができるのだろうか.受験勉強とはその極限への挑戦でもある.先の「命だけは平等だ」の徳田虎男氏はその著作の中で「1日16時間勉強」と述べている.
 また,筑波大学の数学教授の木村達雄氏は次のように述べている.「毎日同じように続けるとすると,1日にやれる勉強時間には,はっきりとした限界があるはずだと考えたんです.1日10時間,12時間とだんだん増やしてやっていき,15時間くらいまでやってもまだ余力がある.ところが16時間やると,どうも翌日疲れる.で,15時間30分にするとまだ大丈夫.15時間40分だと,疲れる・・・.本当に分かるんです.不思議なことに限界が.それで15時間36分40秒っていうところでずっと安定した」


 私の経験でも,だいたい15時間くらいだと思っていた.14時間は楽にできるが,16時間となると睡眠時間に差し障りが出てつらいのである.


 このように考えていくと,受験勉強とはもはや単に問題を解くと言うことのみならず,自己の精神を平静にかつ前向きに保ち,集中力を保持し,かつ,限界へ挑戦するという,人間修行なのである.
 現実にこれだけのことをやりぬくと,自身が湧いてきて,人間は変わるものである.強く,発展的に建設的に変わるものである.


 受験勉強とは言うなれば,中学,高校,さらには予備校を通じて行う,人間を成長させる人間修行である.
 受験勉強には「高校生らしくない」とか「若者らしくない」とか言う意見があり暗いイメージがつきものだし,意味もなく理想論ばかり唱えて受験勉強自体を否定する人たちがいる.しかし,それは間違っている.
 受験勉強は,柔道や剣道,または野球などのように,ひたすら一つのことを追求し努力するのと同じように,すばらしくて,若者らしいことなのである.


 言うなれば,受験勉強とは,「勉強道」ともいうべきひとつの人間修行の場であり,道なのである.

平成16年7月31日

 最後に、イヤな顔一つせずに予備校のテキストをコピーさせてくれたり回してくれた同郷の沢井君(秋田大学工学部金属工学科)、一緒に勉強して燃える想いを語り合った成田君(旭川医大)、再受験の発端を開いてくれた戦友で同期の桜ともいうべき宮西君(金沢大学医学部)、いろいろとやさしく応援してくれた同郷の中谷君(北大数学科)、あともぐりながら、いろいろと勉強を教えてくれた予備校の講師陣の先生方、親身に相談に乗ってくれた北大教養部の山元先生、医学部への希望を認めてくれて,また再受験の時も励ましてくれた函館中部高校の担任の徳谷正先生、そして、心配しながらも応援してくれた両親に深謝する。

I would be lost without you.

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